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先日、ある利用者さんのカンファレンスの中で、
本人にこういう特性がある、こういう傾向があるのは、幼少期からの保護者の関わり方(育て方)が原因なのでは…という話題があがりました。
保護者の目の前で。。
で??
それが何だって言うのかい。
本人の課題が例えば環境要因から来るものであったとしても、
過去のことはねぇ。どうすることも出来ないし。
過去に縛られるのではなく、今の本人を見てあげてほしいなぁ。
何かや誰かを責めたとして何になるの?
私たち支援者は、批判するためにいるのではなく、支えるためにいるのですよ。
環境はね。整っていた方がいいけれど。
でもね。
どんな不遇な環境にいたって、どんな不幸な過去を背負っていたって、前を向いて歩んでいる人はたくさんいて。
課題を周囲のせいにしたところで、本人も変わらなきゃ、事態は変わらないし。
原因を究明することは、課題解決の糸口を探ぐることには繋がるけれど。
今の本人の課題に対してどう対応するかが一番大事なわけで。
目の前の本人にはアプローチ出来ても、過去にはアプローチ出来ませんからねぇ。
ゴタゴタといちゃもんつけ過ぎちゃった。。。
とにかく。
今の本人を見て。
迷わず、よそ見せず、本人を見て。
良い方向へと変われるチカラがあると信じて。
ひたすら信じて。
本人が信じられなくても支援者が信じ続けて。
で、失敗したら笑い合えばいい。
それだけでいい。
それだけがいい。
期待とは…
昨日、小学生たちがこんな紙を持って帰ってきました。
ん???
こんな子になってほしいという願い?
困った挙げ句、
て、なりました。
親の願い?担任の願い?
いらないよ…そんなもの。
どんな人(子)になりたいかは、子ども達自身が自由に決めたらいい。
それを邪魔する権利は大人にも、誰にも、ない。。
期待するのは愛があるからだ、とか言う人もいるけど、
私はそうは思わない。
期待もね。心の中で思ってるだけならいいけれど、言葉にしてしまったら、もう重荷でしかない。
挙げ句の果て、勝手に期待したくせに、期待と違う結果になると裏切られたとか言うし。
期待すると、自然と枠が出来ちゃうことがある。そして枠は時として偏見や差別を産むこともある。
必要なのは、信じることと、何があっても受け入れる姿勢。(と私は思ってる)
それがあれば、子どもは勝手に挑戦するし。失敗したって、傷付いて、いつのまにかまた立ち上がる。
利用者に対しても同じだと私は思う。
期待すると、それにより束縛されてしまうことがある。
それは、利用者はもちろん、支援者も。
利用者は束縛により身動きが取れなくなるし、支援者も自分が思い描くゴールに縛られて、どんどん凝り固まる。
息が詰まる上に、失敗がより一層怖くなる。
挙げ句、自分を責めたり。利用者を責めたり。
それよりか、もっと肩の力を抜きましょ。
夢はその人自身が見ればいいのです。だって夢を叶えるのは私達ではなく、本人なんだから。
周りが叶えさせちゃったら、それは夢とは言えないし。
だいたいね。勝手に期待したり、勝手に他人の将来を夢見たり。でも失敗しても責任取れないでしょ。
失敗したって、遠回りしたって、自分で見た夢を追う方がいいに決まってる。
それが明らかに失敗する夢でも、かなり無理がある夢でもいいのです。
夢を見ること事体を否定するのではなく、ダメだった時に受け止めてあげてほしい。
例えばね。障害特性から運転免許取得は難しいと思われる利用者さんに、「車の免許が取りたい」と言われたら。
それを否定するのではなく、その言葉の真意(ドライブが好きなのか?自由に外出がしたいのか?単純に車が好きなのか?公共交通機関が嫌いなのか?など)を探したり、
その為に何をすれば良いか(まずは交通ルールを覚える。精神科薬を減らせるように生活や気持ちを安定させる。一人で外出出来るように練習する。作業所にきちんと通って免許取得費用を貯める。など)を考えてあげてほしい。
また、本人と一緒に警察署や免許試験センターなどに行って免許取得について質問し、本人が納得できる答えを一緒に探してもいい。
ダメって言うことは簡単だけど。受け止めてあげることの方が、変な期待をするより、よっぽど愛だと思う。
枠に入るのは簡単だけど。
枠を破って脱出するのは簡単じゃないから。
当事者じゃない私達の勝手な思い・期待・縛り・枠を押し付けないで。
信じて、ありのままを受け入れてあげてほしい。
それが、当事者じゃない側の私達が、当事者を想うってこと=愛じゃないかなぁ。
障害者には、障害者って言っちゃいけない?
先日、小学4年の娘が車イスに乗る人が写っている写真を指しながら言ってきた。
この人たちに、障害者って言っちゃいけないんでしょ。
今日ね、(学校の)先生が言ってた。
ん?
まぁね。
障害って。良い言葉ではないし。
社会に障壁があるから生きづらさを感じるわけで。。。って、ここで用語解説してる場合じゃない。
単に、障害者って言葉を使わなければ差別には当たらないなんて、安直過ぎる。
ましてや、
何故「障害者」って言わない方がいいのか、
その言葉にどんな意味が含まれてるのか、
障害者の置かれてる環境や社会、
などの説明もなく、「障害者」って言ってはいけないと言われても。
それこそ偏見であり、差別なのでは?
臭い物には蓋をするレベルです。
確かにねぇ。障害って言葉については、様々な意見があります。
えぇ。
良い響きではないですよね。
ただね。今の日本においては、障害って言葉を介した方が支援しやすい・支援を受けやすいことは現状です。
それに置き換えることが出来、かつ、広く社会に浸透しているワードがないからね。
どんな言葉を用いるかより、
相手を想っていたり、相手の置かれている環境を理解しようとする姿勢の方が大事だと思う。
だいたいね。
娘に、「障害者ってどんな人のこと?」と聞いてみたら、
「車イスに乗ってる人のことでしょ。」と教えてくれました。
おい!障害者って、身体障害だけかい。
なんて浅く薄っぺらな知識だけを植え込んでくれたもんだ。
見えないフリをするのではなく。
見てみよっ。
ほらね。
愛が詰まってる。
見ようとすることで、相手や自分を傷つけてしまうことがあっても。
目をそらさない=相手を想う 気持ちは、前を向くエネルギーになるから。
さぁ。一歩踏み出そ。
橋 - 大人の階段を登る
社会にはまだまだまだ差別や偏見があって。
生きづらさを抱えている人がたくさん。
どうにかしたい。
世界を平和にしたい。
誰もが "いていいんだ" と思える社会にしたい。
そのためには社会的障壁なんてガシガシ壊してやる。。。
。。そう思っていました。
でも。
世界平和を目指すのに、壁を壊すことだけが正解ではないと、ようやく気付きました。
社会に障壁はたくさんあるけれど、
壁に安心感を抱いている人や、壁に守られている人もいる。
壁に橋を架けてあげればいいと、最近あるきっかけで気付かされました。
ようやくかよっ。
って思いますよね。お恥ずかしい。
若い頃に比べると大分丸くなったと思っていたのに、まだまだ尖っていたようですね。
橋を架ける…。
互いの壁(偏見や価値観の違い)を認め、尊重しあう。
それも世界平和への一つの道であり、ステキな方法です。
そうそう。今更気付いたことがもう一つ。
胎児の人権や、必ずしも子どもは大人の指示に従わなければならない存在ではない、なんて話を重ねているうちに。
私の思う平等と、世間の人が思う平等には、もしかしたらズレがあるのではと気付きました。ようやく。
でも。まぁね。ズレがあろうとなかろうと。
違いは違いのままでいいし。
凸凹は凸凹のままでいい。
ズレはズレズレでいい。
違いがあるから味わいがある。
ってことで。
今、橋を架けるから、待ってて。
無理にマジョリティに同化しなくていいよ。
はねだし。はみだし。いい出汁。
疲れた時は、でんぐり返し。
海苔のはねだし。
安くて重宝しますよね。
はねだしって何だ?
はみだしってことか?
海苔のはねだしって、なんか、勝手な言い方だよね。
そもそも、海苔のその部分を端っこだとか、規格外だとか、決めつけてるのって人の都合であって。
海苔の都合を考えてない。
全くもって失礼だなぁ。
はみだし者と呼ばれる人たちも、
他者が勝手に決めつけた枠からはみ出ただけであって。
そもそも「枠」なんてものは、人それぞれ違くて良いし、他者の「枠」に乗っからなきゃならない理由なんてない。
誰かの枠が正解だって、誰が決めるんだろ。
どの部分であれ、海苔は海苔だし。
それはどこまでも尊い海苔なのです。
誰かが勝手に決めた枠からはみ出た人を、傷つけないでほしい。
障害だとか、例えば不妊だとか、社会不適合者だとか。
それは社会のマジョリティが勝手に決めつけた名詞であって、そもそも互いの違いを認めあえる社会ならばそんな名詞は不要。
それっぽっちの理由で、私の大切な人たちを傷つけないでほしい。
はねだしにははねだしの味わいがある。
凸凹だからこそ風味がある。
そもそも、
枠からはみ出ることの何が悪いのか?
何かを成し得る人って、凸凹を持ちうる人です。
だって、みんなが考える枠からはみ出るからこそ、成し得ると言えるわけで。
枠の中でだけなら、「当たり前」で終わります。
はねだしも、はみだしも、凸凹も、
みんなステキ。
違ってくれてありがとう。
きっとね。その凸凹が平和への1ピースになると、
心より信じています。
誰かと「違う」ことに、臆することはない。
堂々と胸を張って「違い」を楽しんでほしい。
偽善と慈善と他人
福祉に携わっている人ならば誰もが言われたことがあるかもしれない、
"それって偽善じゃないの?"なんて言葉。
偽善って何なのか。
どこまでが慈善で、どこからが偽善なのか。
多分考えても考えても答えはないでしょう。
そんなもの、凸凹と同じくらい曖昧なもの。
誰がどの角度から見たものかで、答えは毎回変わる。
どんだけ相手を想ってしたことでも、偽善だと非難されることはある。
自分の自己満足のためにしたことでも、たいそう感謝されて慈善に満ちた人だと褒められることもある。
だいたいさ、100%相手の為にor 100%自分の為に、と言い切れることってない。
相手を想ってしたことでも、その行いにより自分の心が満たされたりと、自分の利益につながることが多い。
自分の名誉欲だったり他者からの好感度を上げるためにしたことでも、相手にとってこの上ないほど嬉しく感じたりと、相手の利益につながることもある。
そうそう。
よく分からない。
いっそ、どっちでも良くないですか。
偽りだとしても慈しみであっても、結果、"善"なら良いんじゃん?
大切なのは、そこじゃない。
"誰かのために"って、結局は自分の物差しの中の"誰かのため"でしかなく、
相手にとっては"押し売り"に他ならないのです。
押し売りでもニーズが合えばいいけれど、ミスマッチになる時もある危険性を忘れてはなりませぬ。
それらを忘れず互いにwin-winになる関係ならば、それは"善"と呼んでいいのでは。
偽善だか慈善だかはどうでもよく、"善"なのです。
だから。つまり。
相手も自分も完全には分かり合えない他人であり、分かり合えないことを認め、だからこそ想え(イマジネーションする)ばいいのです。時には失敗しながら。
人を支えることでお金をもらうなんていう偽善者の代表格の私が言うのもなんですがねぇ。
偽善だとか慈善だとか、言わせておけばいい。。
結局そうやって批判している人たちも、自分ではない他人であり。
だから意見が違っても自然なこと。
分かり合えないからこそ、尊敬できる。
分かり合えないからこそ、想える。
分かり合えないからこそ、面白い。
他人ってヤツは、
ファンタジックだぁね。
私と違うあなたでありがとう。
自己責任論を唱える無責任さ
巷で流行りの"自己責任"。
政治的話題や世論の潮流に意見を述べるのはあまり好きではないのですが、私たちのフィールドにも多少なりとも関わってくる"自己責任"。
自己責任って。
ねぇ?
自分で責任を取るつもりだったとしても、そう出来ないこと、いっぱいありますよ。
外的要因だったり、そうしたくても出来ない、させてもらえないこともあります。
また、するつもりだったけど、いざその状況に直面するとやっぱり出来ない、なんてことも。
それでいいんですよ。人なんだから。
誰でも失敗はするし、未来予測を誤る時もある。
失敗しないにしても、自分の力ではどうにも出来ないことってある。
批判している人は、全く失敗はしない神的存在なのでしょうか。
自分が同じ状況になっても、助けを求めないのでしょうか。
今の社会は生きづらいと訴える方々、その生きづらさを作っている一端にあなたは入っていないですか?
自分の命のピリオドですら自分で決められない私たちが、絶対的な未来を予測できる訳がない。
だから、誤ることは自然なこと。
何においても。
誰かの間違いを批判するなんてちっぽけなことするより、
誰かの間違いを赦して前に進む方がよっぽど生産性がある。
私たちのフィールドにおいても、同じようなことはよくある。
絶対に口に入れないと約束して提供した粘土を口にする利用者。
外に出たら走りませんと自ら宣言したのに外に出た途端に走り出す利用者。
それを自分のせいでしょと見捨てることは出来ません。
それらは障害者に限ったことではなく、誰にでも起こり得ることだし、新生児でもなければ誰もが既に経験済みなはず。
自らも同様に失敗をして来たにも関わらず、他者にだけその責を求めるなんて。
その状況に陥った背景を知りもしないのに勝手に善悪をジャッジし、そのジャッジがその後どういった影響をもたらすのかを考えもせず、その影響の責任も取らない無責任さ。
相手を想う/平和を想うイマジネーションが足りないぜぃ。
お腹でも空いてるのかぃ。
失敗を許せない社会は障害者のみならず万人が生きづらい。
利用者が生きづらい社会は変えていかなきゃね。
失敗は誰でもするもの。
だから、"ごめんなさい"がある。
赦しは誰にでも出来ること。
だから、"ありがとう"がある。
勝手な自己判断で他者を判定する無責任な人がいつかSOSを発した時は、
迷わずSOSをキャッチします。
だって私も困った時には助けてほしいから。
誰でもが抱えている凸凹や失敗。
それが人たる所以。
それを受け入れることが出来たなら。。。
人や世界を想うイマジネーションは大切だぁ。
失っていい命などない。
ワガママとコダワリ
ワガママとコダワリ。
支援の現場にいると、よく出くわすミステリーサークルです。
その言動が果たして、我がままなのか拘りなのか。。。
考えても考えても、言い切れるほどの確証はないし。
悩みますよね。
まぁ多分、見方が違うだけで、どっちとも取れるのでしょうけど。
けどさ。
大事にしてほしいのは、その言動をする本人が困っていないか、という視点。
生きづらさを抱えていたり、つまづきを抱えていたりしないか、をイマジネーションしてあげてほしい。
一つの事象でも、見る人の価値観やバックグラウンドによって色んな見方が出来て当然。だからもはや、我がままなのか拘りなのかなんてどうでもいい。
例えばね。
おやつの声かけを何度しても応じない利用者がいて。
「みんなと一緒じゃ嫌だ。一人で食べたい。」
と言われた。ワガママだと思いますか?コダワリだと思いますか?
その後その利用者にじっくり話を聞くと、「みんなと一緒だと恥ずかしくて食べられない。みんなが私を見ている気がする。それに、みんなの食べる音や袋を開ける音、話し声がいっぺんに頭の中で鳴り続けるから、騒がしくて食べる気にならないの。」
と言われたら、どう対応しますか?
ワガママだとか。コダワリだとか。
目の前の事象を何て形容するか、それは大した問題じゃなく。
大切なのは、そのアクションを起こす利用者の背景をイマジネーションすること。
何故その行動に至ったのか?
そうせざるを得ない原因は何なのか?
本人は困っていないか?
を想像すること。
それが、寄り添うってやつだと思います。
支援ってやつは
ワガママだとか言って、好き勝手に他者を決めつけたり、その行動が生じた理由を本人にのみ求めるようなヒューマンエラーのせいにするのではなく、
対象者がどういう気持ちなのか、何故そうせざるを得なかったのかを想像したり、相手から引き出したりして、
「辞めなさい」などと相手にばかり改善を強いるものではなく、
その行動をさせてしまった原因が自分たちにないだろうかと反省しつつ、
「どうしたら辞められるか」を一緒に考えたり、「辞めなくていい方法」や「別の表現方法」を探ること
なのかなぁと私は思います。
だってさ。
みんな誰しもが凸凹してる面があるでしょ。
私だったら、ワガママって切り捨てられたら悲しいもん。
で、自分がされて嫌なことを、他人には出来ないよね。
ただそれだけのこと。
じゃん♪
体罰。パワハラ。 何がいけないのかー支援の立場から
最近よく耳にする言葉。
体罰。
パワハラ。
暴力を伴う指導または躾。
虐待。
これらに対して、色んな意見があります。
賛否両論。
そりゃそーだ。
何事にも良い面も悪い面もあるんだから。
良い面があるからといって肯定されるもんでもない。
支援の現場において、上記ワードたちは、
絶対に許されない
と私は思います。私はね。
では、
何故許されないのか?
どうしてしてはいけないのか?
支援の立場から以下に3つお話しします。
1.本人にのみ非の責任を求める
そもそもね。体罰や暴言・暴力というのは、対象者が何か悪いことをしたorしなかったことが悪いetc...と、相手の非を責める時に行われることが多いです。
でもね。じゃあ、そうさせたあなたに責任はないのか?という論点がまず欠けています。自分の反省は置き去りに相手(利用者)にだけ罪を被せるのはnonsenseです。
大体ね、暴力や暴言って、自分がイライラしてなきゃやらないでしょ。自分の感情をコントロール出来ないくせに、そのことへの反省はないのかいな。
例えば、利用者が他利用者を叩いてしまったという事例。
→イライラさせる環境要因は?
→他に興味を惹く活動を提供出来なかったのか?
→暴力以外の意思表出方法を探る支援はしてきたか?
等々、探せばいくらでも本人以外に起因する要因はあります。
それらを考えずに本人を批判するのみでは、また同じことが繰り返し起きるでしょう。
だって、ヒューマンエラーのせいにしたところで根本的な解決には至りませんから。
2.それ(体罰や暴言・暴力など)以外の支援方法があるか考えていない
体罰や虐待ってね。一番安易で簡単な行為なんですよ。
思考停止しちゃってますからね。
でもね。何か起きてしまった時に、それ以外の方法で相手に伝える・改善を求めることは、とても根気のいることで努力が必要です。
また、相手以外の人(自分など)に原因はないかと考えたり、環境要因はないかと探すことは、勇気のいることだし、それらを改善の方向へ向けて変化させるには、とてつもないパワーが要ります。
けれど、それをしなくてはなりません。私たち支援者は。
だってプロフェッショナルですから。報酬をもらってサービスを提供しているのだから。
感情に任せて怒るだけなんて脳がないことをやってお金をもらうなんてこと、やめましょ。プライドってのは、こういうところで発揮するもんでしょ。
暴力や暴言で恐怖を与えたところでねぇ。恐怖に怯えることで事態が好転したように見えても、それは恐怖から逃れる為に本能的に動いているだけ。人間も生存本能がある"動物"ですから。
それらは事態改善への根本的な解決には繋がりません。
恐怖を与えることは支援ではないですし。
支援ってのは、壁にぶつかってばかり。悩んでばかり。光なんてそうそう差しません。
そう。悩み続ければいいんです。壁にぶつかっては違う支援方法を考え、考え、悩み、どツボにはまる、それでいいのです。
諦めない勇気を持ち続けることが私たちの仕事なのです。
100個の支援方法を試してダメだったら、101個目を考えればいいのです。
安易に暴力を振るうことは、悩むことを放棄しています。
支援者としての仕事(悩むこと)を放棄していることになります。
→こらぁ給料ドロボウ!
また、悩むことで得られる成長の機会を自分から奪ってしまいます。
3.サービスマンですよ?
私たち支援者も、指導者も、教育者も、
お金をもらってサービスを提供しているサービスマンですよ。
お客さんに暴力・暴言を浴びせるなんて。
言語道断であり、これ以上言及の必要もないでしょう。
忘れてはいけない視点です。
マウント(利用者の上に立つ)をとろうとしてはなりませぬ。
ん?
利用者より支援者がエライ?
生徒より先生がエライ?
子どもより大人がエライ?
んなわけない。
同じ"人"でしょ。
上下関係を作っているのは、思い込みとクダラナイ常識。
体罰、しちゃうのかい?
勿体ないよねぇ。
叩きたい程に自分の感情を揺さぶる壁がせっかく現れたのに、
考える・悩む というレベルアップの機会を享受しないなんて。
普段をちゃらんぽらんでふんわり過ごす為にも、
しめるところはキュキュっとしめて。
さぁ。ゴロゴロしましょうよ。
ありのままの まんまって?
ありのままでいいじゃん。
よくそう思います。うんうん。
みんながみんな、ありのままでいいし。
私も、私のありのままをみんなに受け入れてほしいと思う。
けどさ。
最近、みんなが思う"ありのまま"と私が思う"ありのまま"が違うかもって感じることがありました。
ありのままって、どんなまんま??
私が思うのは、
そのまんまってこと。
いつもと違う自分でもいい。
緊張したり、他人に良く見られようと演じたり、着飾ったり、偽ったり。
時にはウソついたり。他人を傷つけてしまったり。
失敗したり。転んだり。
愛想笑いしたり。。。
それでいいのよ〜。
だってみんな"人"だもの。
いつもナチュラルで天然素材ですなんて人、いないでしょ。
ウソついたことないとか、聖人じゃあるまいし。
演じたっていいじゃん。心のままに演じるのが人間っぽいよね。
緊張しないとか、鉄人か?っての。
それが私の思う"ありのまま"。
よーするに、
何でもいい
ってこと。
自分の心が赴くままに、自分を生きればいいんじゃん?
大体ね。演じたところであなたであることに何ら変わりないし。
いくら取り繕ったところで、自分以外の何者にもなれないちぃっぽけな存在なのよ。人ってヤツは。
本当の自分とか。ウソの自分とか。
そんなものはない。
自分は、どこまでも自分でしかなく。
自分でしかありえない。
それは、命に始まりと終わりがあるのと同じくらい絶対的なもの。
だからこそね。
ずーっと付き合っていく"自分"を好きでいてほしい。
せめて自分くらいは自分を好きでいてあげてほしい。
"自分"の批判なんて、放っておいても他人がしてくれるんだから。
あなたがどんなあなたであっても、あなたはあなた自身の味方であり続けてほしい。
そんなことを想う今日この頃。
だって私たちの仕事ってね、みんなが
自分自身を好きでいられるように
どんな自分でもいいんだって思えるように
支援すること だから。。
利用者や支援者や世界中の人や
あなたが
自分を好きでいられますよーに。