自分の無力さ加減を受け入れる勇気を持つ人こそ有力な勇者なのかもしれない
支援者としての自分と対峙する時、自分の無力さ加減に何度凹んだことか。
どんなに応援していても、腹の底からどーにかしてあげたいと思っても、
結局当事者にはなれない。
そんな当たり前の事実に、何度つまづいたことか。
自分が支援して、利用者が笑顔になった。
でもそれって私じゃなくても笑顔になったかもしれない。
ていうか。誰が助けた訳ではなく、とどのつまり当人が自分で壁を乗り越えただけだよね。
ってこと、いっぱいある。
そう。大体さ。私たち支援者は本当に無力。
課題に対して色んなアプローチを提案したり、アプローチを安心して歩けるようにカーペットを敷いてあげたりはするけれど。
結局歩くのは当事者本人。本人が歩こうとしなければ、私たちがどんなに必死で応援しても、何も変わらない。
支援者ってさ…。
…。
何のためにいるの。
結局自力で這い上がるしかないなら、支援者っていらなくね?もはや偽善者ぶった面倒くさいヤツでしかない。
時々そんな迷宮に入っちゃう私。
でもでもでもさ。カーペット敷き係も、偽善者ぶった面倒くさいヤツも、いた方がいいよね。
いなくてもどーにかなるかもしれないけど、いてもいいよね。(と思いたい)
私たち支援者は、そんなフィールドを舞台に日々あくせく働いているのかも。
一緒に夢を語り、一緒に泣き、一緒に遠回りし、一緒に立ち止まり、一緒に凹んで、一緒に凸る。
いなくてもいーけど、いてもいいよね。
そんなちぃっぽけな存在。
その認識を間違えると、この利用者には私がいなきゃダメだわ論者とか、パニックになっても私が抱きしめてあげれば大丈夫よ論者が産まれちゃう。
そうしてそういう論者ほど、自分は有力で優秀な支援者だと思い込んでいる。思い込みの支援ほど怖いものはないっていうのに。
そしてそして、囲い込みの支援になります。
枠に入れなくて困ってる利用者に自分の思い込んだ枠を勝手に用意して、そこに入れたがる(囲いたがる)。はみ出した利用者に対して、何で私がこんなに尽くしてるのに解ってくれないのバリに激昂し、もう他所の事業所へor無視するかのように締め出す。
枠に入れたがるのは勿論、もはやその支援者自身が自分で考えた枠に入りたがるというレイアウトマンではないのか。
なーんてね。
超尖がった意見だわ。
でもね。
自分の無力さ加減を知っている人こそ、強いです。
無鉄砲にやらないし。
知ったかぶりしないし。
何より、自分一人で解決しようとしないので、周りと協働しようとします。
そしてチームで課題を共有することが、多様な価値観を持つチームメイトの意見を取り入れることが出来、よりたくさんのアプローチ方法から最善の支援方法を選択しやすくなります。
選択肢は多いほど"最善"に近付きますからね。
そう。自分は非力だと思い、チームに助けを求めることが突破口になるのです。
人に助けを求める、人に聞くって、財産ですよね。
私はたまに自分の支援に奢っちゃうから、勇者にはなれてないなぁ。
精進しますっ。