責任☆
責任感ってさ、みなさんはどう思いますか?
障害福祉分野で働く中で、「責任」ってやつを感じることは多いです。
特に発達障害の利用者さんなどは、私たちの誤った支援が本人の中で形式化・習慣化・公式化してしまうことが多々あり、一つの間違えがその後の人生の何十年間にも渡って影響を及ぼすこともあります。
私たち(支援者)は、
勝手に人(利用者)の人生に関わる仕事を選んで、勝手に人の人生に関わった責任をどう考えているのか
と問われることがあります。
大多数であろう私より真面目な支援者さんたちが、どうお答えになるのか分かりませんが、
私にはきちんと答えることが出来ません。責任って…。そう言われても…。うーん。
考え込んでしまいます。
大体さ、人の人生に関わるって、そんなに大したことだと私は思っていないし。
どんな仕事であれ、というか、別に仕事じゃなくても、みんな何かしら誰かと関わっているでしょ。SNS上であったとしてもね。
人と関わるってことは、すっごい微々たるものかもしれないけど、相手の人生に何かしら影響を与える可能性はあるわけで。影響を与える=人生に関わることになるのでは。
例えばさ、映画館でポップコーンを買ったんだけど、買ったポップコーンを子どもが嬉しそうに持っていたら、近くを歩いていた他人とぶつかってポップコーンを落としてしまい、泣きながら映画を見ることに。
後日、「あの時はさ、あんなことがあって泣いてたけど、結局は映画が始まったらポップコーンのことなんて忘れてたじゃん」なんて家族で笑って言える場面があったりして。
そんなちっぽけなことだけど、他人との関わりの中でのハプニングが、家族の良い思い出として人生の1ページとなるし、子供にとっても、「泣いちゃった→けど映画は楽しかった→案外嫌なこともすぐ忘れられるもんだ→ていうか、失敗談でも笑い話になることもあるんだね」みたいに学習する機会になるわけで、その学習・経験の積み重ねがその子の人生を紡いでいくのだと感じます。
前述した「間違った支援がその利用者のその後において影響を与えることもある」ことについても、支援がその人(利用者)の「人生」に関わっていると言えるでしょうね。ただね、間違いは少ないほうがいいけど、しちゃうのが人間だし。間違えたら、謝って訂正する努力をすればいいのです。許してもらえなくても。
「人の人生に勝手に関わる責任」?
ていうか、利用者だって支援者の人生に関わってるし。
お互いに関わりあって、影響しあう。それが社会に生きている証。迷惑かけたり、恥をさらしたり、それも社会で生きている証。当たり前のこと。
今あなたの目の前にいる人があなたの人生に関わる可能性があると思うとワクワクしない?そう思うと電車に乗っていてもさ、なんだか車内を見渡しちゃうよね。この人はどんなオーラの人かしら。この人、福祉くさい匂いがするぞって。
まぁ、ワクワクするのは私だけかもだけど、あまりこの話を長くすると、宗教っぽくなるか、凸凹論になるかどっちかだからやーめた。
そんなわけでさ、「勝手に人の人生に関わる責任」って。責任自体は、あるかないかと問われれば一定程度は発生するとは思います。
ただね、それは障害福祉分野で働く支援者・福祉分野全般で働く職員のみが強く意識する必要はないんじゃん?その辺歩いている一般の人だってある程度「勝手に人の人生に関わる」可能性もあるのだから。
責任ってさ。真面目に重く受け止めることも大事。ただね、受け止め方によっては重荷になったり、真っすぐには到底歩けないほどの重い重い十字架のような足かせとなったり。するもんです。
私みたいなふわっとしてる輩は、ちょっとくらい重く受け止めないといけない場面もあるけど。(いや、ちょっとじゃないか。多々あるかな。)
責任が重い鎖となって自由なイマジネーションが出来ないようじゃぁね。そもそも良い支援は出来ないし。豊かな発想に基づく楽しい支援にはつながらないよ。
それが果たして利用者にとって良いことなのか。
利用者にとっての最善の利益は何なのか?
そっちを重ーく考えてもいいんじゃないのかな。
まぁね。私が言ってもね。
じゃあ、「勝手に人の人生に関わる責任」ってどうなのよ。
コウモリ?モモンガ?のように飛び立つのよ~。
答えなんて結局さ、見つからないものよー。
ぐるぐるぐるぐる考えて、
いい塩梅で行けばいいのでは?
そんな究極の責任感を問われても、すぐに即答できるほど無責任なもんはないよ。