子ども?大人?障がい者?の人権って…
成人も児童もどちらの障がい者と関わってきましたが、
人権って難しい…。
障がい者(成人)は、どんなに知能が低かったり発語がなかったりしても、だからこそ支援者はどこまでも人権について敏感に考えながら支援しています。
意思表出が難しい、判断能力が低いからこそ、差別や虐待を受け易く、またさらにそれを自ら訴えることが出来ない。気付く事すら出来ず虐待を受け続けている利用者はたくさんいることでしょう。
だからこそ私たち支援者は人権擁護について敏感にキャッチし、代わりに訴えたり守ったりする義務があるのです。
支援計画を立てる時にも家族の意向よりまずは本人の意思を尊重します。
では、家族の意向と知的に重度の障がいを持つ利用者の意向がぶつかった時どうするのか。
きっと正解はないでしょう。ただ私は正直、本人のための支援であると思ってるので、家族の意向なんてお構いなしに支援計画を作ったこともたくさんあります。(というか、その反対はしたことありません)
例え発語がなくてもね。そんなこと関係ありません。利用者の意向を汲もうとすれば(諦めなければ)、いくらでも方法はあります。発語がない、意思表出がないからといって、利用者の意向を反映させない支援は絶対にしたくないというのが、ちっぽけな私のプライドなのです。(そういう支援者ほど決めつけ・思い込みの支援に落ち入りやすいのです。そう。私はそんな危ない奴。だからみなさん、たまには私を叱ってくださいね)
ところがどっこい。障がい児(児童)の人権ってさ、ちょいと難しいですよね。受給者証も保護者に支給されている形だし。制度上すでに、親のためのサービスとなっていて、保護者の意向を汲むことが当然となっています。
まぁ。そうか。子どもだしね。保護者に保護される年齢だからね。親の意見を第一にね。
なーんて絶対思えない!私。
無理無理。本人の意思を尊重しちゃうよ。
私、制度からずれてるよ…。でもそこ(親よりも本人の気持ちを大切にしたい)は譲れないぞ。困ったな…。だから凸凹なんだよ…。あぁ譲れない。絶対やだ。
ん?待てよ。
知的に重度の障がいを持つ方って、保護される側くらいの知的年齢だったりしますよね。でもきちんと本人の意思を尊重した本人のための支援をしますよね。
じゃあさ、子どもだからとか、子どもじゃ判断できないから保護者の意向を第一にする、あるいは保護者の意向だけで支援する、支援計画を立てるって、なんかおかしくないですか?
私は自分の子どもも人格を持った一人の”人”だと考えているので、言葉をある程度理解出来るようになったら、常に選択肢を提示して選んでもらい、さらにその結果に責任を持ってもらいます。
まぁ私なんか真っ当に育ってないから、正しい子育て?(そんなものあるのかなぁ)なんてよく分からないし。
そもそも私自身がきちんとした大人じゃないからねぇ。偉そうに大人ぶれないから、子どもと対等になってしまうのかもしれません。ですが、子どもたちも、ただ人として尊重されるだけでなく、他者も(赤ちゃんであれ)尊重されるべき存在だと体得しているので、対等だからと言って大人を軽視したりなんてことは今のところありません。
そのやり方が正しいとは決して思いませんが、子どもも何度も選択を経験するうちに、選択には責任が伴うことや、失敗する時もあることを学習しているように見えます。(色眼鏡かもしれませんがね)
他者から見れば保護者としての責任を放棄している無責任な親でしょう。
子育ても支援と同じで正解はないと思います。
脱線しましたが、
だから障がい者・児の人権って…どう捉えればいいんでしょうね。
そもそも子どもであれ大人であれ障がい者であれ、ただの”人”ですよ。意思や人権は誰にでも存在するんじゃん?
じゃあ実際どう支援していくのか、みなさんの腕の見せどころですね。
恐竜に子どもとか大人とか障がい者ってあるのかしら?