偽善と慈善と他人
福祉に携わっている人ならば誰もが言われたことがあるかもしれない、
"それって偽善じゃないの?"なんて言葉。
偽善って何なのか。
どこまでが慈善で、どこからが偽善なのか。
多分考えても考えても答えはないでしょう。
そんなもの、凸凹と同じくらい曖昧なもの。
誰がどの角度から見たものかで、答えは毎回変わる。
どんだけ相手を想ってしたことでも、偽善だと非難されることはある。
自分の自己満足のためにしたことでも、たいそう感謝されて慈善に満ちた人だと褒められることもある。
だいたいさ、100%相手の為にor 100%自分の為に、と言い切れることってない。
相手を想ってしたことでも、その行いにより自分の心が満たされたりと、自分の利益につながることが多い。
自分の名誉欲だったり他者からの好感度を上げるためにしたことでも、相手にとってこの上ないほど嬉しく感じたりと、相手の利益につながることもある。
そうそう。
よく分からない。
いっそ、どっちでも良くないですか。
偽りだとしても慈しみであっても、結果、"善"なら良いんじゃん?
大切なのは、そこじゃない。
"誰かのために"って、結局は自分の物差しの中の"誰かのため"でしかなく、
相手にとっては"押し売り"に他ならないのです。
押し売りでもニーズが合えばいいけれど、ミスマッチになる時もある危険性を忘れてはなりませぬ。
それらを忘れず互いにwin-winになる関係ならば、それは"善"と呼んでいいのでは。
偽善だか慈善だかはどうでもよく、"善"なのです。
だから。つまり。
相手も自分も完全には分かり合えない他人であり、分かり合えないことを認め、だからこそ想え(イマジネーションする)ばいいのです。時には失敗しながら。
人を支えることでお金をもらうなんていう偽善者の代表格の私が言うのもなんですがねぇ。
偽善だとか慈善だとか、言わせておけばいい。。
結局そうやって批判している人たちも、自分ではない他人であり。
だから意見が違っても自然なこと。
分かり合えないからこそ、尊敬できる。
分かり合えないからこそ、想える。
分かり合えないからこそ、面白い。
他人ってヤツは、
ファンタジックだぁね。
私と違うあなたでありがとう。