自己責任論を唱える無責任さ
巷で流行りの"自己責任"。
政治的話題や世論の潮流に意見を述べるのはあまり好きではないのですが、私たちのフィールドにも多少なりとも関わってくる"自己責任"。
自己責任って。
ねぇ?
自分で責任を取るつもりだったとしても、そう出来ないこと、いっぱいありますよ。
外的要因だったり、そうしたくても出来ない、させてもらえないこともあります。
また、するつもりだったけど、いざその状況に直面するとやっぱり出来ない、なんてことも。
それでいいんですよ。人なんだから。
誰でも失敗はするし、未来予測を誤る時もある。
失敗しないにしても、自分の力ではどうにも出来ないことってある。
批判している人は、全く失敗はしない神的存在なのでしょうか。
自分が同じ状況になっても、助けを求めないのでしょうか。
今の社会は生きづらいと訴える方々、その生きづらさを作っている一端にあなたは入っていないですか?
自分の命のピリオドですら自分で決められない私たちが、絶対的な未来を予測できる訳がない。
だから、誤ることは自然なこと。
何においても。
誰かの間違いを批判するなんてちっぽけなことするより、
誰かの間違いを赦して前に進む方がよっぽど生産性がある。
私たちのフィールドにおいても、同じようなことはよくある。
絶対に口に入れないと約束して提供した粘土を口にする利用者。
外に出たら走りませんと自ら宣言したのに外に出た途端に走り出す利用者。
それを自分のせいでしょと見捨てることは出来ません。
それらは障害者に限ったことではなく、誰にでも起こり得ることだし、新生児でもなければ誰もが既に経験済みなはず。
自らも同様に失敗をして来たにも関わらず、他者にだけその責を求めるなんて。
その状況に陥った背景を知りもしないのに勝手に善悪をジャッジし、そのジャッジがその後どういった影響をもたらすのかを考えもせず、その影響の責任も取らない無責任さ。
相手を想う/平和を想うイマジネーションが足りないぜぃ。
お腹でも空いてるのかぃ。
失敗を許せない社会は障害者のみならず万人が生きづらい。
利用者が生きづらい社会は変えていかなきゃね。
失敗は誰でもするもの。
だから、"ごめんなさい"がある。
赦しは誰にでも出来ること。
だから、"ありがとう"がある。
勝手な自己判断で他者を判定する無責任な人がいつかSOSを発した時は、
迷わずSOSをキャッチします。
だって私も困った時には助けてほしいから。
誰でもが抱えている凸凹や失敗。
それが人たる所以。
それを受け入れることが出来たなら。。。
人や世界を想うイマジネーションは大切だぁ。
失っていい命などない。