支援 凸凹 障がい 障害 福祉 人権 平和

しえんって何なんだブログ

良い支援とは? 答えのない問いに悩む日々。悩むだけじゃもったいないので、エンジョイしてみました。 質問は→質問箱https://t.co/Mm7zBhiSVp

人権とか。平等とか。

人ってさ、みんな大切でしょ。

 

 

それは当たり前のこと。

と思っている人の中にも、

 

それは当たり前のこと。

と実際に言っている人の中にも、

 

 

何故か障害者と距離を保とうとしたり、

子どもに指示的であったりします。

 

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なんでなの。

 

みんなが言う平等とか人権の意味がよく分からない。

私だけズレてるのか?

 

子どもにも意思はあるよ。

赤ちゃんだって泣いて意思表示するじゃん。

意思がある人が意思を表出したのに、しつけ・指導・教育としてその意思を否定することは、

人権侵害だと私は思います。

子どもは親の所有物ではないし、子どもだからと言って大人の言う通りにしないといけない理由はありません。

保護者??

保護者って保護する立場であって、失敗する権利を奪ったり、意思を否定する権限はありません。

 

意思があるならば、判断能力はあると私なら考えます。

なので、判断能力がある子どもの判断を否定することは、その結果に関わらず(失敗したとしても)、権利侵害です。

ただし、責任能力がない子どもには(責任能力がある子どもに過剰な支援をすることも権利侵害につながります)サポートが必要であり、そのサポートを「保護する」(保護者)と表現しているに過ぎないと私は思います。

 

それらは、障害者に対しても同様です。

 

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なんてね。

あくまでも私の考え方ですが。

そんなウンチクはどーでもいいんです。

 

 

ただただ、

 

命って平等だよ

みんな大切

 

ってだけのこと。

なんでそれが出来ないの。

 

 

どうして

子どもってだけで頭ごなしに注意して

障害者ってだけで導いてあげなきゃと思い込むの

 

 

あなたはそんなにエライのですか?

 

誰かを自分より下に見たり

誰かを自分より弱い存在だと決めつけたり

 

 

自分の命の始まりと終わりすら自分では選べないちっぽけな存在のくせに、

同じ命を持つ誰かを批判したりコントロールしようとするなんて

 

バカげてる。

神じゃないんだから。

 

 

 

みんな同じ

みんな大切

 

 

本当にそう思っていますか?

 

私は本気でそう思っています。

 

どんなに偉人とされる人であれ、産まれたばかりの赤ちゃんであれ、誰からも異人とされる人であれ、どんなハンディを抱えている人であれ、

彼らは私と同じラインに立っていると思っています。

 

 

 

 

私自身は、とってもちぃっぽけな存在。

だから私の声なんてかき消されることばかり。

 

そんな私が言いたいのは、

 

 

あなたの声も聞くから

私の声も聞いて

 

あなたを大切にするから

私も大切にして

 

あなたと私は平等だと思うから

あなたも私を対等だと思って

 

というだけのこと。

なんて自分勝手な人権意識……

 

世界中のみんなが誰からも侵害されることなく好きなことにチャレンジ出来るのであれば、

自分勝手と批判されても構わない〜。

シャララ〜。

 

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あの事件から2年 差別の構造

相模原殺傷事件から2年 被告、謝罪なく「人でないから殺人ではない」


との記事が、あちこちに。


そう。障害福祉分野で働く私たちが忘れてはならない、あの事件。



巷のSNSでは色んな論評があります。。


2年経っても被害者の実名を公表しようとしない被害者家族への批判。

被告はアブナイ精神障害者だという意見。

障害者は得体の知れない存在だし、重度障害者は働かず税金を使って生活している社会のお荷物だから、被告の主張も分からなくもないとの論。

被害者の顔のイラストが可愛いすぎて、テレビ制作側が印象操作している。本当の障害者はあんなに可愛いもんじゃないというメディア批判。




心が真っ暗に、どんより沈んで行きそうな気持ちになりますね。

この狭い日本社会でもこれだけたくさんの人たちが、障害者に対してマイナスイメージを持っているんだと。


苦しく。心底悲しく。自分の無力さに絶望しそうになります。


そう。しそうになるだけで、私は絶望はしません。

だって課題があったら、解決を目指せばいいだけですから。


さぁて、どこから手を出しちゃおうかな〜と、前を向きます。

それが私たちの仕事ですからね。


目の前の利用者のみならず、広く社会福祉の寄与増進に努めることが、福祉で働くソーシャルワーカーに課せられているのですから。

税金から給料の一部を頂いている以上、ミクロの視点(目の前の利用者支援)のみならず、マクロの視点(社会福祉への貢献)も忘れてはなりませぬ。


誰もが暮らしやすくなる社会へ、ありのままの自分と他者を受け入れる社会へ、

私たちがするべきことはたくさんあるようです。




今回の報道で気になることは山ほどあるのですが(被害者の顔が可愛いすぎて印象操作だ論→顔が可愛かろうが可愛くなかろうが一人の命であることに変わりはなく、どうでもいい程くだらない!)、

一番引っかかるのは、今も多くの被害者が実名公表されないこと。

被告もその事実に対し、「結局は障害者が身内にいることを隠したいんだ」と語っており、「障害者は人ではない」という被告の主張を暗に支持する形となってしまっている。


実名公表されない理由は、被害者家族が「知的障害者が家族であることが知られると、生活に影響が出かねない」とのことらしい。


差別。。。ですね。

差別を受けてきた人がより弱い人を差別するという、典型的な構図。


そう。私はこの現実に何回も直面してきた。

入所施設にいる利用者は、家族から家族扱いされていない方が多いです。

利用者を施設に入所させることには精力的に動いていたのにいざ入所すると、家族と急に連絡がとれなくなる…面会には一切来ない…

なんてね。まぁよくあるケースです。


でもだからといって、全て家族が悪い訳ではありません(ヒューマンエラーのせいにしたところで何も変わりませんから)。

家族がそうならざる得ない状況にした地域や社会の問題。

家族が入所後も家族でい続けられるようにソーシャルワーカー達は努力したのか。

そもそもね、実名を公表するかどうかを家族が決められるという法制度がオカシイ。


実名公表の権利を何故家族に委ねるのか。

法制度自体も障害者を差別してるじゃん。

障害者だって、自分で自分のことを決められるよ。



くっそー。こんな社会じゃいつまでも暮らしにくい。

社会的障壁め。うじゃうじゃしおって。

そりゃぁこんな事件起きるよ。被告と同じ考えの人いっぱいいるでしょ。

悔しい。



どうしてみんなで手を取り合えないの?



誰もがみんな、ありのままの自分を受け入れてもらいたいと思うでしょ。

だったら他者のありのままも受け入れようよ。

たったそれっぽっちのこと。

健常か障害かなんて関係ない。

手を繋げばいいだけのこと。


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何が出来るか。決して諦めず。それぞれが出来ることを。


諦めたら世界は1ミリも変わらないのだから。

判断能力。

障害福祉分野では良く耳にする言葉、"判断能力"。


判断能力ってなんだろか。


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判断能力があるっていう基準が私にはよく分からない。


例えば、

この道が正しいと判断して実行しても、結果失敗。。

なんてこと多々ありますよね。

健常者であれ、障害者であれ。


それは判断能力がないって言うの?


大体さ。結果が見えないものを判断する時に、100%正しい答えなんて存在しないでしょ。


誰でも、正解する時もあれば、間違える時もある。成功する時もあれば、失敗する時もある。

というか、

失敗したからこそ成功できた

なんてことだってあるし。


失敗も成功も、どちらも大事。どちらも経験することが人生を愉しむってことなんだと思う。


つまり。。。

失敗すら大事な学びの機会であるのだから、失敗する機会を保障することも大切。

なわけで。。。

失敗や間違えも必要不可欠なもの。

だから。。。

判断を誤ったっていいじゃない。

となるので。。。

判断能力がないって言い切れる根拠は、そもそもない。

と言えるのでは?


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ちなみにさ。

"判断能力がない"ってセリフ、大分上から目線なお言葉ですよね。

あなたもさ、判断を誤ることはあるでしょ、

って思っちゃう。

だって人間だもの。間違えは自然なこと。


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選択肢の中から自分の意思で選択できるのであれば、その結果がどうであろうとも、"判断した"ってことになるのでは。

その結果に関わらず、"判断した"人に対して、"判断能力がない"と言うことは、人権侵害だと私は思います。


意思決定支援と叫ばれている昨今。

利用者の意思を尊重するのであれば、判断能力などという言葉は不要。

判断した=意思表示を、能力不足と言うなんて。利用者が発した意思を真っ向から否定しているじゃんか。





判断能力がないと自信を持って他者に言えるその人の判断能力を、むしろ私は疑うわ。



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なーんて。

失敗ばかりする私が言っても説得力はないけどねぇ。ちゃんちゃん♪

虐待問題はもはや個人や事業所での対策には限界があるかもしれない

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先日、行政主催の障害者虐待防止研修に参加してきました。


そこではグループワークがあり、ある事例に対して

どれが虐待にあたるのか

虐待が起こる原因は何なのか

改善に向けてどうしたらいいのか

が話し合われた。


よくある光景。

グループ内の参加者全員が答えを知っていた。


風通しのいい職場作り

OJTをきちんと行う

利用者の視点に立って考える

支援技術を上げる

障害特性への理解を深める

虐待防止研修に参加する

etc.....



ってさ。みんなが分かりきったワードを並べて何の意味があるの?


障害福祉分野で働く人は、虐待防止研修への参加が義務付けられてるのだから、誰しもがある程度の知識は持っている。


だけど。だけども、虐待は発生するのです。


虐待をした支援者も事業所も、そんな知識は当然知っていて。

その上で虐待は起こってしまうのです。



もはや誰もが知っている知識を並べただけでは虐待は防げないと、私は思う。


虐待は個人のせいにしたところで何も変わりません。ヒューマンエラーを責めたところで、構造が変わらなければまた起きますから。


では事業所の問題かと言うと、事業所全体で取り組まなくてはならないことは確かです。


しかし、しかし。

その事業所の開設を承認した行政の責任はいずこに?

監督責任はないの?

虐待防止研修たるものを開催して、トップダウンで誰もが知ってる知識を並べるだけ。

そんなことで防げるとでも。


毎年同じ研修を行って、でも虐待は起こってしまう。

既存の知識・ルーティンの研修だけでは充分な対策にはなっていないかもしれない可能性を考えたことは?





そう。私は思う。

虐待は、もしかしたら、この脆い法制度にも問題があるのではと。



基本的に、福祉サービスの実施主体は市区町村であります。

障害者へ充分なサービスを提供しなくてはならない責を負っている行政が直接的なサービスを実施出来ない部分を、私たちが代わりに提供しているに過ぎないのです。


なので。つまりはサービスを委託した行政側にも非がないとは言えないし、任せる以上は、本当に適切なサービスを提供できる事業所かどうか常に監督しなくてはならないと思います。

虐待が起こった際も、ただただ他人事のように上から指導し、虐待の全ての原因を事業所 のせいだと決めつけるのではなく、

利用者へサービスを提供する側のチームメイトとして、一緒に反省し、悩み、考えてもらえないでしょうか。



虐待防止は新しいステージへと向かう必要があると私は思う。


そもそも。この制度に虐待が起こり得るリスクはないのか。

大した理念(私もないですが…)や人権意識もなく、利益追求のためだけに事業所を開設できるような法制度となっていないか。

今一度検証が必要だと感じる昨今です。


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さてさて。そんな話はさておき。

個人レベルで大切なことは、

私も虐待してしまうかもしれない

と考えることだと思います。


私は絶対虐待なんかしないと思ってる人は、虐待のことなんて頭にないです。意識から外れているのです。

「だって私、虐待なんかしないもの」

と思っているから。

でもね、そういう支援者は自分の支援を振り返らないので、虐待のリスクは高まります。


逆に、

私も虐待しちゃうかもなぁ。気をつけないと。

と思っている支援者ほど、虐待しないよう日々意識して支援にあたるし、自らを振り返ることができるので、虐待のリスクは低くなります。


だってさぁ。支援者も一人のヒトですから。

たまには間違えることもありますよ。


大切なのは、間違えに気付けることと。

間違えたら、ごめんなさいと言える姿勢。



ごめんなさいとありがとうは魔法の言葉。



何が言いたいのか分からなくなっちゃったけど…

さぁNEWステージへ。

だって、いつも同じとこにいたらつまんないもんねー。


行ってダメなら戻ればいいし。

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風邪ひいて思うこと

最近風邪をひきました。

 

で、しみじみ思ったこと。

 

 

ヒトの身体って素直。

 

    疲れがたまる

→免疫力が下がる

→風邪をひく=休息を取りなさいとカラダから指令が出る

→休みやペースダウンを余儀なくされる

→休息により元気に

→回復

→なんだか疲れもとれてるぞ

 

てな感じで。

 

 

自らを回復させようというこのシステム。スゴイわぁ。

 

 

ヒトのココロもね。

本当は素直なはず。

きっとSOSが出てるよね。

それをキャッチして、自分を労ってあげてほしいな。

そしたらきっと、ココロの疲れや傷も徐々に回復するはず。

 

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利用者のSOSに、敏感に気付ける支援者でありたいな。

仲間のSOSに、気付けるチームメイトでいたいなぁ。

 

 

でもね。

そうなる為にはきっと。

自分自身も自分のSOSに気付けるようにならないとね。。。

 

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頑張ってもどうにもならなくて後ろにも前にも行けない、そんな時。

いっそやれるだけやってみて、疲れ果てて、免疫力が下がって、風邪をひいて、休み、ひたすら休んで回復を待つ。

てのでもいいんじゃないかな。

 

 

みんなが無理せず、フラっと生きられる社会になれるように尽力したい

 

と心新たにした38.4℃でした。

 

 

 

ちなみに。

私と同じく風邪をひいた7歳が大量に嘔吐するのを見て。

ココロの膿もあれだけ勢いよく吐き出せたらいいのにぃっと、ちょっと羨ましく感じました。

 

 

フラっと出来る社会にしたいと願いつつ、

フワっとしちゃう自分に、

クラっと来て、

これじゃいかん!とメラっとしました。

 

うぷ。この韻のくだらなさに、吐きそうになっちゃった。みんなも、もらいリバースしてイヤなもん、全部吐き出しちまえぃ。

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あ、ターキン。

助け合いと殺し合い(前話のおまけ)

境界の話をしていたら、ふと5年前の出来事を思い出しました。



当時小学生1年だった男児が、風呂場で


助け合い  と  殺し合い  って、同じ「合い」なのに、なんでこんなに違うんだろう…


と独り言を話し、ひたすら悩み、1時間程風呂から出て来ずに他家族に多大な迷惑をかけたことがありました。



助け合う  と  殺し合う。。


全然違うじゃん


って私も最初は思いました。ていうか今でも思います。



だけどさ、

互いに影響与え、互いに互いへ向けてアクションを起こすという意味では。まぁ同じと言えなくもない。互いに相手のことを考えないと出来ない行為だし。(内容は全然違うけど)


だって。ボーダー(境界)って曖昧なヤツですから。


殺し合いしているうちに助け合いし出すかもしれないし、その逆もしかり。



私たちなんて、そんな不確かなことばかりしている曖昧な存在。


だから誰かをどうこう判断するのではなく、互いの違いを楽しんで、凸凹を可愛がってあげませんか。


きっと周りも自分も楽になれる気がします。



とてつもなくどうでもいい小1男児の疑問でしたが、

案外そういうちっぽけな疑問が世界を平和にするかもね。



人って曖昧だけど。だからこそ無限の可能性があるのでは?



境界にこだわらない人が増えたら、

一歩平和に近づくような気がする今日この頃。



互いの違いや凸凹を認める障がい福祉分野。

平和へのヒントを産み出せる気がするのは私だけかなぁ。


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境界

あなたは、マイノリティですか?マジョリティですか?

 

なんて聞かれたらどう答えますか?

 

 

私は……答えに困るなぁ。

だって。どっちの側面もあるから。

この部分はこっちだけど、あの部分はあっちだなぁ。なんて感じで。

 

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障がいもそう。

どっからを障がいというのかなんて、法の定義はありつつも、でもやっぱり不確か。

 

同じ状態像の人でも、生活に何ら不自由さや障壁を感じない人もいる。

そんな方々は福祉サービスの必要が無ければ使わないし、手帳も要らない、医療(薬等)も要らない。なんて方も現実にはいます。

 

一方で、障がいの診断がはっきりとつくレベルではないとされる方の中に、生活に困り果てていたり、到底耐えられないほどの生きづらさを感じている人たちもいます。

 

凸凹もね。境界がよく分からない。どこまでがスタンダードで、どっからが凸凹なのかしら。

 

 

大体さ、人はみんな違うじゃんか。

同じ人なんていない。

同じ人なんて見たことない。

 

それを無理にどっかの尺度から枠に入れようとすることこそ、無理なことなんじゃ。

 

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そもそもさ。誰かが決めたボーダーライン。

そのラインも時間とともに変化する。

その上、自分ってヤツも常にあっちこっちとラインがブレまくる。

困ってる人も、今日は困り感ハンパなかったけど、翌日になったらなんだかスッキリしちゃってぇ、なんだか大丈夫そうですぅ。なんて相談してくる方もいます。

 

マジョリティやマイノリティに対する考え方も、人それぞれ違うしね。

 

 

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最近イラスト担当がサボっていて写真撮って済まそうとしてるのよ。手抜きを覚えるなんて。大体これはなんのよー。尻尾だけじゃ分からなーい。

 

 

ってことで。長々と書いてきて、みなさんのお時間を使った挙句にいいますが、

 



ちょーくだらなーいね。この議論。

 

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結局さ、自分だって自分のことを全部把握してるわけじゃないし、新しい自分に出会えることもある。自分は常にマジョリティ側だと自信持って言えたところで、ねぇ?いつ変化するか分からない。

 

 


そう。だから。


人は色んな「人」がいるのよ。

あなたとあなたの隣人は違う「人」なの。

自分もいつか今とは違う「人」になるかもしれない。

それが自然なこと。それでいいじゃん。

 

 

 

境界線を引かなきゃいけないのかい。

引いたら便利かもしれないけど、傷付く人が出るのも事実。

だったらさ、もうライン引きや枠作りはしたくないっす。

 

 

違いは違いでいいんじゃなかろうか。

違いがあるから光って見える。

 

誰かが誰かを一方的に決めつけたり判断したりボーダーラインを決めること、いっそ、辞めませんか。無責任で無意味な事のように私には思えます。

 

ただ単に、困っている人や弱っている人を見たらお手伝いすればいいだけでしょ。

 


そーれーだーけーー

のこと。

困り事を共有して、解決に向けてお手伝いする。

不確かな境界を判断するなんてくだらないこと、辞めちゃいましょ。

 

そんな暇があるなら、笑い転げて道路に飛び出しちゃったり、笑い過ぎてオナラしちゃう方がよっぽど楽しいよ。

 

境界は変わるのに、誰かが誰かを判断するなんてバカげてる。

 

手を繋いで足りないところは助け合っていけばいい。

 

 


ごちゃごちゃうるさいね。

 

とにかく周りになんと言われようとそのままのあなたのままでいてほしい。それだけ!

ボーダーなんてくそくらえぃ。

 

家族代わりになることを私は支援だとは思わない

福祉分野で働く人は、情に厚い人が多い。。

ような気がします。

気がするってだけですけどね。

 

 

でも。

それは時として、支援の障壁となることがあります。

 

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いつだったか。

やけに利用者と距離感が近い事業所を見たことがあります。名前も呼び捨てでした。

敬語や丁寧語を一切使わず。

利用者も職員も対等というか、友達みたいというか…。

私には見たことない光景でした。

 

なので、

何で呼び捨てで呼んでるの?

何でそんな関わり方なの?

と聞いてみました。

 

そしたらね。

 

この利用者は家族関係が複雑なの。

家族代わりになってほしいと本人の母から言われてる。

本人も、今まで施設やら病院やらで暮らすことが多く、いつも◯◯さんと呼ばれて他人扱いされてたから、こうやって深く関わることを求めているの。

さん付けで呼ぶと、どうしても距離を感じちゃうじゃない?

 

と、職員さんに言われました。

 

ふぅーん。そうなんだぁ。

本人も求めてるのか。じゃあいいのか。

 

 

なーーーーんて、思えるかいっ。

 

大前提として、家族や本人が求めていること=ニーズではないでしょ。

まずさ。ニーズとデマンドは違うよ。

そして、家族にはなれないよ?

どんなに頑張っても支援者の私たちが家族になることは出来ないし。

まずまずもって、家族になろうとしてはいけないでしょ。職業人として。ていうか、なれないし。

私たちは、家族ではない支援者だからこそできることをする為にいるのであって。

お金をもらってサービスを提供しているサービスマン(私たち支援者)が、家族になるって。ねぇ?

いやいや。

ただのサービスマンとカスタマーの関係であることを忘れてはならないし、踏み越えちゃダメよぅ。

大体さ、呼び捨てにしなきゃ利用者との距離を縮められないなんて。スキルがありませんと降参してるのかしら。

呼び方云々、家族代わり云々…。

 

 

間違ってるぜぃ。熱い情熱を注ぐのはそこじゃない。

 

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支援者として、本人や家族がそれぞれの課題を自分で解決できるよう後押ししたり、複雑に絡まった紐を一つずつ解いたり。

本人たち自らが歩き出そうと思えるようエンパワメントすること。

困った時に振り返ると座敷わらしのようにそこにいる…そんな存在でいいんじゃないのかな。

 

家族代わりになるって。果たして誰のニーズで、誰のデマンドで、誰の利益につながるのか。もしかしたら支援者が家族代わりになってあげたいと無意識にでも思っちゃってるかもね。

 

 

自分がやりたいことと、自分がやれることは違うからね〜。

どんなにいい人ぶっても所詮はお金もらって働いている職業人ですよ。利用者と一線はあります。けどね、その一線を心地よいものにするかどうかは、あなた次第♪

 

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思い込みの支援にならないよう、私も精進しようっと。

勉強させてくれたその方々に感謝です。

 

あ、あとね。敬語や丁寧語を使わずに利用者と話していると、やっぱりどこかで利用者を敬う気持ちを忘れてしまいがちになり、それは時として人権侵害につながります。私が出会った人権侵害する支援者のほとんどはそうでした。言葉は言霊(ことだま)ですから。言葉は大切。想いが言葉になるように、言葉もまた想い・考え・行動に影響を与え、具現化してしまいます。だからこそ言葉に気をつけることによって、自分が一線を乗り越えないよう助けてくれることもありますよ。

理解すること

支援者として、利用者の視点からアプローチを考え、利用者の思いに寄り添おうと試みることはよくあります。


ただ、本当の意味で他者を理解することって可能なのだろうか?

そして、他者を理解することって必要なのかな?

と最近よく思います。


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他者を理解しようとすることは大切だけど、

また、それに対して努力することも否定しないけど、

けど。。

本当の意味で他者を理解することは難しいかなと思います。


自分とは違う考え方や価値観を持つ他者を完全に理解することは…ね。

出来る人もいるかも知れないけど、私のキャパでは無理だなぁ。

そして、私みたいな危ないヤツが、他者を理解した気になることは超危険だとも思います。


それにね。。。


理解出来ないからこそ、毎回の関わりが楽しい。なんてこと、多々あります。


理解出来ない、私には不可能な発想を教えてくれる相手を、

理解しようとするのではなく。

自分との違いを楽しみ。

違いを見せつけてくれたことに感謝し。

ただそのままに受け止める。


私とあなたは違うんだね。

違っていて、良かったね。


みたいな?



と考えることが出来たら、なんだかとっても楽になりました。

今までは、出来もしないくせに、利用者を理解しようとし過ぎてた私。傲慢だったわぁ。


自分のことすら自分でもよく知らないくせにぃ。


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チームメイトもね。自分とは違う価値観の人がいるから"チーム"であるのだし。

違う者同士だからこそ、新たなイマジネーションが産まれるよね。


自分みたいのばっかりだったら、怖いわぁ。

私がたくさんいるって、もうホラーです。


違いは違いのままに。

凸凹は凸凹のままに。


なんか、それでいいって最近思う。


でも。じゃあ何の支援してるのかって聞かれると、

ん? 何もしてない………かも。ただ隣にいるだけ。


だから、みなさん。自分で壁を乗り越えていけーっ。

自分の無力さ加減を受け入れる勇気を持つ人こそ有力な勇者なのかもしれない

支援者としての自分と対峙する時、自分の無力さ加減に何度凹んだことか。


どんなに応援していても、腹の底からどーにかしてあげたいと思っても、

結局当事者にはなれない。

そんな当たり前の事実に、何度つまづいたことか。


自分が支援して、利用者が笑顔になった。

でもそれって私じゃなくても笑顔になったかもしれない。

ていうか。誰が助けた訳ではなく、とどのつまり当人が自分で壁を乗り越えただけだよね。


ってこと、いっぱいある。


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そう。大体さ。私たち支援者は本当に無力。

課題に対して色んなアプローチを提案したり、アプローチを安心して歩けるようにカーペットを敷いてあげたりはするけれど。

結局歩くのは当事者本人。本人が歩こうとしなければ、私たちがどんなに必死で応援しても、何も変わらない。



支援者ってさ…。

…。

何のためにいるの。

結局自力で這い上がるしかないなら、支援者っていらなくね?もはや偽善者ぶった面倒くさいヤツでしかない。


時々そんな迷宮に入っちゃう私。



でもでもでもさ。カーペット敷き係も、偽善者ぶった面倒くさいヤツも、いた方がいいよね。

いなくてもどーにかなるかもしれないけど、いてもいいよね。(と思いたい)

私たち支援者は、そんなフィールドを舞台に日々あくせく働いているのかも。


一緒に夢を語り、一緒に泣き、一緒に遠回りし、一緒に立ち止まり、一緒に凹んで、一緒に凸る。


いなくてもいーけど、いてもいいよね。

そんなちぃっぽけな存在。


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その認識を間違えると、この利用者には私がいなきゃダメだわ論者とか、パニックになっても私が抱きしめてあげれば大丈夫よ論者が産まれちゃう。

そうしてそういう論者ほど、自分は有力で優秀な支援者だと思い込んでいる。思い込みの支援ほど怖いものはないっていうのに。

そしてそして、囲い込みの支援になります。

枠に入れなくて困ってる利用者に自分の思い込んだ枠を勝手に用意して、そこに入れたがる(囲いたがる)。はみ出した利用者に対して、何で私がこんなに尽くしてるのに解ってくれないのバリに激昂し、もう他所の事業所へor無視するかのように締め出す。

枠に入れたがるのは勿論、もはやその支援者自身が自分で考えた枠に入りたがるというレイアウトマンではないのか。


なーんてね。

超尖がった意見だわ。


でもね。

自分の無力さ加減を知っている人こそ、強いです。

無鉄砲にやらないし。

知ったかぶりしないし。

何より、自分一人で解決しようとしないので、周りと協働しようとします。

そしてチームで課題を共有することが、多様な価値観を持つチームメイトの意見を取り入れることが出来、よりたくさんのアプローチ方法から最善の支援方法を選択しやすくなります。

選択肢は多いほど"最善"に近付きますからね。


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そう。自分は非力だと思い、チームに助けを求めることが突破口になるのです。


人に助けを求める、人に聞くって、財産ですよね。


私はたまに自分の支援に奢っちゃうから、勇者にはなれてないなぁ。

精進しますっ。