支援 凸凹 障がい 障害 福祉 人権 平和

しえんって何なんだブログ

良い支援とは? 答えのない問いに悩む日々。悩むだけじゃもったいないので、エンジョイしてみました。 質問は→質問箱https://t.co/Mm7zBhiSVp

ゆっくり行きましょ

思い思いの想いを胸に、新年度が始まりましたね。


なんていう決まり文句は置いといて。


何かとストレスの掛かる時期でもありますね。

利用者をストレスから守るために、ストレスを軽減するために、皆さんはどうしてますか?


掛かり得るストレスを予測して先回りして取り除く。事前にアナウンスして出来る限り備えてもらう…。

等々、いっぱいありますよね。やれることは。


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ただね。たくさんあるやれることをやればいいわけじゃない。。。


やれることをやりたいのは支援者である自分だけかもしれないという可能性を忘れずに。



先回りし過ぎていませんか。

不必要に懸念材料を排除していませんか。

利用者が成功や失敗をする権利を保障していますか。

利用者の自立を支援者自信のあなたが妨げていないか、もう一度確認しましたか?


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10数年前、子どもの保育園入園に際して、こんなやり取りをしたことがあります。

職場復帰日が決まっていて、慣らし保育が出来ない…どうしよう…。

困っていると園長先生が、

慣らし保育なんて本当は要らないので大丈夫ですよ。子どもの適応能力は高いのです。最初は泣くだろうけど、逆に初登園日から長時間過ごす中で、すぐに慣れることが出来る、そんなこと多いんですよ。

と優しく教えてくれました。10数年前だから許されたことかもしれません。(実際下の子たちは、ばっちし慣らし保育ありましたから)けれど、子どもには過度に守らなくても、自分で乗り越えていくチカラがあると教えてくれた出来事でした。


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そうそう。利用者にも同じくパワーがあります。もちろん弱い部分と強い部分がありますが。


エンパワメントして利用者の持ち得る能力を引き出す。

失敗しながらも、何とか自分でやってみたという経験を積む。


それらが自信につながり、自立への橋渡しとなることがあります。


だから、

凸凹は消さず。

過度な支援はせず。

もどかしい思いをしながらも、利用者を想い、ひたすら見守り、待つ。

失敗した時には寄り添って。チャレンジ出来たことを称賛する。

ケガやキズができたならば、絆創膏でも貼っといて。


そーんな感じでいいんじゃないだろか。


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ドキドキ不安な時期。

支援者も一緒にドキドキや不安を共有してみる。

何でも先回りして対処したり予防線を張ると、利用者の本当の課題や、隠れてたステキな伸びしろが見えてこなくなることがあります。

先回りしてもいいですが、その後は現実のラインまで戻ってきて。ゆっくり利用者と並んで歩こうよ。

だってせっかくお散歩が楽しい時期。

遠回したり、寄り道してもいい。

ゆっくりゆっくり進めばいい。



私はそう思う。

人権にこだわる

 人権ってさ。こだわるとキリがないけど、障がい分野で働くなら、なおさら大切なことだと私は思います。


上手く自分の気持ちを発信することが出来ない利用者の思いを、いかに想像して寄り添うか。


言葉が出ない・知的レベルが低い等の理由で、悲しいかなこの業界で働く職員の中には、利用者の気持ちをを聞かない人もいます。


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話せないから、聞かなくていい?

判断能力がないから聞かなくていい?


そんなバカな。

そう思ってるなら、もはや職業人ではないので辞めてしまえ。

そう思うあなたの判断能力をむしろ疑うわ。


と思うほど、利用者をないがしろにしている事業所や職員を未だに見かけます。


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判断力がないって勝手に決め付けないで。

どんなにIQが低かろうと、利用者にもきちんと意思があります。気持ちがあります。思いがあります。


そのことに寄り添い、例え失敗するようなことを選択したとしても、ケガをするとか命に関わることでなければ、利用者の思いを尊重してあげて。

失敗する機会を奪うことは人権侵害だから。


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入所施設にいた時。


利用者が昼食に出たラーメンを食べ、最後にスープを全部飲み干そうとしていると。


スープは飲まないで!体に悪いから。


と、食器ごと取り上げてしまう光景を見ることがありました。その利用者は唸り声をあげ、地団駄を踏んでいました。

そりや怒りますよね。だって食事を勝手に横取りされた様なもんです。利用者にとっては、食事という一連の動作が終わっていないのでパニックですよ。


ん?スープを飲み干しちゃいけないの?

塩分制限はない利用者だよ。

例え何らかの疾病があり、塩分制限あろうとも、無かろうとも。

とりあえず、飲んじゃいけないなら、元々スープを減らしておくか、スープの塩分を減らしておいてよ。

栄養士がいる施設なら尚の事。


途中で食事を取り上げなくていい方法なんて、いくらでもある。


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そうそう。食事と言えば。

デザートを先に食べるか問題も!


先にデザートを食べちゃうからと言って、デザートを取り上げて。他のものを食べ終わってから渡すっていう…よく見る光景ですが。


デザートから食べることの何が悪いのか、私には分かりません。

デザート食べちゃって、その他のものを食べないのなら、それ相応の対応が必要ですが。


そうでないなら、たかが食べる順番。デザートは最後に食べるなんてのは、その職員の慣習であって。それを利用者に押し付けないでほしい。

だって、障がい年金であろうと、日々の食事代は利用者本人が支払っているんですよ。


好きなもんを食べたらいいじゃないですか。

自分のお金なんだから。


私たちだって。苦手なものを残したり。好きなものから食べたり。みんなそれぞれのスタイルがあるじゃん。

なんで勝手に自分の狭い常識?だか慣習?だかに利用者をはめ込もうとするかな。


それは人権侵害だと、私は思います。


あ。あとさぁ。苦手な野菜とか食べないからって、その利用者の好きなものと混ぜて一緒に食べさせるのやめません?


私、それ嫌だ。せっかく好きな食べ物が、嫌いな味に汚染されるじゃん。


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マジョリティの枠に入れなくてしんどい思いをしている利用者を、さらに枠に入れようとする。


それは支援じゃない。


一般的な枠に入れない私はそう思います。


いっそ。一緒に枠からはみ出しちゃえぃ。

結構楽しいよ。

くるしい。しんどい。 そんなあなたへ。

苦しくて、しんどくて、どうにもならない時。

どうしてますか?

 

そんな時。私は他者に意識を向けるようにしてます。

誰か困っていないかな?

こんな私でも手伝えることないかな?

しんどい思いをしている人を助けてあげたいな。

なんて。

 

だって。本当にしんどい時は自分と向き合うことすら出来ないこともあります。向き合おうとすると、自分自身が壊れてしまいそうになる時があります。だから壊れないよう、ひたすら「自分」から逃げるのです。

 

自分を助けることは出来ないけれど、他者に意識を向けて、他者の為と思うと、私は動けます。結果、相手も笑顔になると純粋に嬉しいし、自分に自信がつきます。自分と対峙する勇気が湧いてくることがあります。

 

ええ。奢りであり、傲慢だとも思います。

 

自分勝手で、偽善。

結局は他者を見下して自分の存在を確かめてるだけじゃんか。

自己満足でしかない。

自分の承認欲求を満たすために他者を利用してる。

 

なんて批判があるかもしれません。

あって当然ですし。そういう側面はあるのでしょう。

 

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ただね。

偽善でも傲慢でもいいじゃないですか。

許してもらえないでしょうか。

 

と、弱い心の私は思ってしまいます。

結果的にどちらも笑顔になるのなら。それでいいのでは。

自分の苦しみを乗り越えた時に、その分世の中に還元するということで、チャラにしていただけないでしょうか。

 

なんてね。超チャラい私。

 

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しんどい時ほど他者の為に動く。

その過程で相手からパワーをもらえる時もあるし。自分で自分をエンパワメント出来ることもある。

そして相手にパワーを押し売り出来る時もあります。(相手は迷惑かもしれませんがね)

 

って。これは全くもって正解ではありません。

みなさんが、それぞれに自分なりのやり過ごし方でなんとか乗り切ればいいのです。

なんとか生きていければいいのです。

誰や彼やに迷惑掛けたっていいのです。何をしたって迷惑という名のもとに、人と関わって生きていくのが人ってヤツですから。

 

 

でもね。しんどい時。

動くって大事。。

 

それが誰の為でも何の為でも、どうだっていい。

ただね。何も動かないと、何も変化しない。しんどさも変わらない。

だから、とりあえず何か動きゃいいんです。

 

動けなければ、

 

動けない!と発する。

大の字に寝転ぶ。

死んだフリをする。

あえて本当に何もしない。(風呂入らない→臭くなる。 仕事行かない→お金なくなる。  歯を磨かない→虫歯になる。  真面目に生きない→信用なくなるけど人生楽しくなるかもよ?etc… = Oh!なんてファンタスティックな変化)

 

てのでもいい。それも立派な「動く」ことだから。

 

だってね。私は道の真ん中で寝込んでいる人や動けなくなっている人や死んでるっぽい人がいたら、絶対声掛けますよ。それが、変化をもたらす、ってこと。

 

動けば何かしら変化する。

もう。いっそ。鼻くそほじるんでもいい。

鼻くそほじる→しんどすぎて、かったるくて、手を洗うの面倒いから、汚れた指をティッシュで拭く→そのうちティッシュなくなるから買いに行かなくちゃ。みたいな

 

 

あ。ここでウソついても仕方ないので真実をお伝えしますが、

動くことによって、よりドン底に落ちることもありますよー。私、落ちましたから。ぼちゃんって。

でもそれも愛嬌ってことで。まぁ何かしら変化は産みますからね。

 

私は、みんなが動いてくれたら、キャッチして沼地から引っ張り上げて。ついでにその辺にポーンと投げちゃいますよ。そのままその辺でゴロゴロして気が向くまで休んどけばいいんです。

 

 

 

分かってることは、

 

動かなきゃ何も変わらない。

 

 

 

みんながどこかしらに向けて動けますよーに。(出来れば良い方へ)

腹の底から応援しています。

 

どうしてこの記事を書いたかって?今私がしんどいから!あなたを支えたいの!

あはは。そう。どこまでも自分勝手なんですよー。

伸びしろ

昨日ふと、「爪の生え際に白い部分がある人は天才になるんだよ」と私に教えてくれた人がいました。

 

本当か?

確かめると、私は両手とも親指と人差し指にだけ白い部分があった。

けど、隣のヤツは10本指全てに白い部分があった。

けどけど、そのまた隣の方は右手の親指にのみ白い部分があった。

 

真偽のほどは不明。確かなのは、現時点で私含めこの3人は天才ではないってこと。

でもさ。未来のことは誰にも分からない。

誰にでも無限の可能性があるもんね。

そう。伸びしろってヤツよ。

 

 

支援者として思うこと。。

 

利用者の伸びしろを大切にしたい。

伸びしろを制限したくない。

どうせ凸凹なら、むしろどこまでも凸凹してほしい。

キレッキレの尖ったジャックナイフでもいいから。

 

 

世界から戦争はなくならないよ。

地球温暖化は止まらないよ。

 

なんていう常識?だか諦め?なんだかを平然と言う”常識人”に、一発ぶちかましてほしい。

 

常識なんて砕いてしまえ。

言い訳をして諦めている人より、自分のこだわりを捨てられずに苦しんで苦しんで凸凹し続けていることの方が、

カッコいい

と私は思う。

 

支援者ならば、

枠に入ることができずに苦しんでいる利用者を、

さらに枠へと押し込めようとすることだけは

絶対にしないでほしい。

 

どうしても枠に入れるなら、

マジョリティが入る枠ではなく、

本人が快適に過ごせる枠を用意してから、

こっちにどうぞってお誘いしてみて。

 

伸びしろを大切にしない支援者に

伸びしろはない。

 

私たちのイマジネーションなんかよりもはるか先にいる利用者に思いをはせるなら、

自分も伸びて伸びて常識なんて突き抜けていかないとね。

 

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↑4つの絵はストーリーでつながっているらしい。

 

 

あなたの凸凹も。とってもステキだよ。

まだまだ伸びていける。

ソワソワ。ワクワク。

この時期って、利用者もソワソワしますよねぇ。

えぇ。"も"ってことは、もちろん職員もソワソワしていることを示唆しています。

 

そんな利用者に、

ソワソワしないで

落ち着いて

 

等と声掛けする職員が増えるこの季節。

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そんなに注意しなくても…と思ってしまいます。

だって児童の施設では、進学・進級したり、担任が変わるなど、何かしら変化のある春。

不安だよねぇ。

 

成人の施設だって、担当職員が変わったり、親しい仲間や職員とお別れがある季節。そりゃぁ不安ですよ。

 

そもそもね。職員だってさ。

多少なりともソワソワしてるでしょ。

異動がある?

担当変わる?

配置替え?

なんて。

あ。昇給ある?ないかーぁ。なんてのも。

 

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そんな時期ですよ。

 

ソワソワしたきゃすればいいのです。

ワクワクするならいっそ全力でワクワクしちゃえばいいのです。

(もちろん不必要に不安を煽ってはいけませんがね)

それが春ってヤツです。

 

季節を楽しむって大事。

 

自分では抑えきれない不安や期待は、思いっきり吐き出して。

泣き叫び、喜び笑い転げる。

そんなくらいで丁度いい。

 

落ち着かない様子の利用者と、

なんだか落ち着かないよねぇ。

っと言いながら一緒にお散歩でもしてみる。

別れは淋しいね。

って一緒に泣いてみる。

 

気持ちを抑止するのではなく、

受け止めて寄り添ってあげてほしいなぁ。

 

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そんなことをしているうちに。

ほら。きっとあなたの気持ちもほころぶよ。

 

そんな春です。

 

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利用者には、悲しむ権利も不安になる権利も嬉しくなる権利もあるのです。

プラスもマイナスも、どちらもきちんと味わえる。それが人生では?

 

安心できる箱の中に閉じこめるだけでは支援とは言えない。私はそう思います。

注目行動

最近脱線気味でしたので、真面目に支援の話をしたいと思います。

 

私たち支援者は、利用者を支援する役割を持つ職業人です。

 

でもさ、支援できてるかって。

分かんないよねー。

 

そもそも自分のアプローチが正しいのかそうじゃないのかすら判断が難しいし。

支援できてるって言い切れる方が怖いかな。

 

たらたらと、

この支援方法でいいのかなぁ。

あ、やっぱりこっちのアプローチがいいかな。

いやいや、この場合は見守りだけでいいのか。

なんて。ひたすら迷走する感じが支援てヤツなのかな。

 

そうそう。先日もね。頭の中でぐるぐる迷走する出来事が。

 

注目行動に対しては過剰に反応しないと支援統一されていた利用者が、ある注目行動をしていました。

で、職員の大半は注目しちゃいけない・反応しちゃいけない→目をそらす・何の声掛けもしない

なんてことをやっていました。

しかし、支援統一の話し合いに出てない職員が声掛けをして関わると、その利用者はとても嬉しそうに声を出して笑っていました。

 

注目行動。って。私たちが勝手にそう思い込んでいるだけかもしれないし。

注目行動だとしたら注目されたいんだから、スルーするのは支援として間違っていないかい?

そもそも支援中に目を向けないなんて。ネグレクトか?

 

仮に注目行動だとしたら、当人にきちんと目を向けて向き合い、注目してるよと伝えてあげれば安心するのでは?

注目されたいという意思表示が適切でない行動として現れるのなら、スルーではなく、適切な表現方法へと導くことが必要では?

自分をきちんと見てもらえてないと感じるから注目行動と呼ばれる行動で表現してるだけだし。

じゃあきちんと向き合うべきかなと。

個人的にはね。思います。

 

とことん向き合って注目してあげる。

見ているよ。あなたがいてくれて嬉しいよ。と伝わるように表現する。

承認欲求を満たしてあげる。

 

それから、ようやく本人も支援者も互いに一歩を踏み出せるのかな。

 

何が正しいかなんて分からないけどねぇ。

少なくともスルーするのみでは支援とは言えないんじゃないかな。

 

色んな意見があると思います。

 

ただ。

利用者にね。

こっち向いてくれないの?さみしいな。

 

なんて思いは絶対にさせたくない。

 

 

と思う私の想いは、思い込みの支援になっちゃうのかもね。

 

果たして利用者の想いはどこに…。

 

それをイマジネーションするのが皆さんの腕の見せ所。

 

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逃げる勇気と逃げない勇気

 

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逃げだす勇気

逃げずに残り続ける勇気

 

踏みとどまるチカラ

飛び出すチカラ

 

自分にウソをつかない心

自分を信じる心

 

友を送り出すナミダ

友に別れを告げるナミダ

 

何度も転ぶ痛み

何度も立ち上がる痛み

 

がむしゃらに進むパワー

慎重に丁寧に歩みを進めるパワー

 

迷い続ける挑み

決断を下す挑み

 

悲しみの果ての泣きコエ

泣くのをこらえる声にならないコエ

 

あきらめない強さ

あきらめる強さ

 

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どっちがいいかなんて分かるかい。

きっと。

どっちもいい。

 

 

自分を好きになれるか?

他者を受け入れられるか?

自分を大切にできなきゃいけないの?

何が正しくて何が正しくないのか?

逃げちゃ悪いのか?

諦めることは逃げなのか?

変わらなきゃいけないの?

前を向かなきゃならないのかなぁ?

ヒトより凸凹で何が悪いの?

限界は誰が決めたんだ?

 

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どんなブリザードとなろうとも。

 

 

正解は誰にも分からないし、決めるのは自分自身。

自分では決められなくて、ヒトに頼りたいならそうすればいい。それも立派な決断。

みんなには、

自分の心の望むままをしてあげてほしい。

 

自分を大切にするのも。いじめるのも。鼓舞するのも。ちょっと休むのも。後ろ向きになるのも。でんぐり返しするのも。

 

あなたの心が欲するのなら、そうしてあげて。

それがあなたの本当の声ならば。

たとえ後で後悔することになっても。

後悔しないことなんて、どうせないし。

たとえ無責任だと非難されても。

責任なんて、結局外野がとやかく言うほど無責任なものはないし。

 

 

利用者とか。

チームとか。

友とか。

家族とか。

ではなく、「あなた」にそうしてほしい。

 

答えは見つからなくていいものだから。

 

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限られた時間

限りのない未来

 

へ向けて。

がむしゃらでも。がむしゃらでなくても。死んだフリでも。鼻くそ飛ばすのも。

 

あなた次第でいい

と。私は心底思います。

 

 

 

自分に優しくできないと他者に優しくできないのか論

自分に優しくできないと他者に優しくできない。

 

自分を愛せないと本当に他者を愛することはできない。

 

自分を大切にできないと他者(利用者)を守ることはできない。

 

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なんて言葉をよく聞きます。

職場でもよく耳にします。

 

けどさ、自分に優しくできてるか、自分を愛せているか、自分を大切にしているか、

ってどうやって分かるの。

 

それが出来てるか否かのボーダーラインはどこなの?

 

大抵人は、多少なりとも自分を好きでしょ。

どんなにネガティヴで否定的な人であっても、自分を微かでも好きだからこそ、「ネガティヴ」で「否定的」になり、自分に予防線を張って自己防衛するものです。

自分に攻撃的になるのもね、見方によっては、他者を攻撃しなければ他者からの攻撃を受けないという最大の防御=自分の身を守る ことにもなります。不安や苛立ちやストレスを発散させつつ自分の身を守るという行為が自分への攻撃という形で現れることもあり、その根底には、どこかで、わずかでも、自分を好き なのです。

自分の命について迷うこともね、自分を楽にさせてあげたいという気持ちが根底にある場合もあります。自分を好きだから、自分を楽にさせてあげたいですよね。

 

(↑あくまでも、命に迷ったこともある一個人の意見です。嫌な気持ちにさせてしまったらすみません。)

 

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そもそもね、自分を好きでいいんですよ。

自分を好きになることは自然なこと。

だってそれ(自分を好きになること)がないと、自己防衛できないでしょ。

人は動物だから、生存本能があって当然ですし、ごく自然なこと。

 

どんなに自分を嫌いだって公言している人も、インフルエンザにかかって辛い思いをしたら病院に行ったりするじゃん。

 

なんとなく、大声で「自分が好きー!」なんて言う人を見たら、この人ナルシストか?なんて疑うのが日本社会ってやつですが、

それは生物学的に自然な気持ちであり、世界的にはごく当たり前の気持ちとして恥ずべきではなく、誇りに思う気持ちとして光を浴びます。

 

と。まぁ。脱線しちゃったので話を戻します。  

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そう。だから自分を好きな気持ちは自然なことであり、多少なりとも誰でもが持っている気持ちです。

 

でもだからといって、自分を本当に愛せているのか?なんて聞かれてもねぇ。

 

本能的に微かに自分のことは好きかも と 自分を愛している

ってどこからが「愛する」と言うの? うーん。ラインが分かんない。

 

ただね、「自分に優しくできている」「自分を愛せている」「自分を大切にできている」と確実に言えなくても、

家族・恋人・友人・利用者・街で歩いている人などの他者に対し、優しくする・愛する・守るという行為をとれる人はたくさんいます。それは確実に言えること。

 

本当の意味での、「他者に優しくする」「他者を愛する」「他者を守る」ことができてるかどうかなんて分からないけどね。

 

大体「優しくする」「愛する」「守る」の本当の意味って何だぁ?

そこのラインもよく分からない。

 

ほぅら。また道に迷い込んだぞ…。

 

だから。

もうこの論争はおしまいにしませんか。

目指すべき終着点が私には分かりません。

 

他人から見るとどうなのか。他人が感じる「愛」とか「優しさ」だとかと私が感じるものが違うとか。どうでもいい気も…。

 

今日はいいことがあったから、なんとなく他者(ヒト)に優しくしようっと。

で、いいんじゃないかしら。

 

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↑ ファンタスティックコラボレーション。人から動物から海洋生物からゴジラまでいるよ。赤ちゃんの近くにチーターいるよ。

作成した方々曰く、仲良く暮らしている のだそうです。ファンタスティック。

種族を超える「愛」ですね。

これこそ正真正銘の「愛」と呼べるのかもしれません。

 

じゃなくて。

私はね。そう。私は、自分のこと愛せているのかも大切にできているのかも分かりません。こんな自分が嫌だ、とか 自分なんて嫌いだー なんて思う日もあります。

自分の情けなさや不甲斐なさに悔しくて涙を流す日もあります。

自分ってどんだけバカなんだよぅ。バカバカバカっ。と思う日なんて多々あります。

 

でもね。こんなんヤツでも利用者に対しては、「サポートしたい」「もっと生きやすくなる社会に変えていきたい」と真摯に思っていますし。自分のできる限りの支援をしたいと思っています。自分の家族の保護者会や個人面談には行かないけれど、利用者との面談やケースカンファレンスや担当者会議には時間を惜しんででも足繁く通いつめます。利用者の想いを汲むため、利用者の想いを実現するための支援に対しては、熱くてやっかいな気持ちを抱えていますので、日々その厄介な奴らとの闘いです。

 

それがたとえ独りよがりであっても。他人から偽善だと批判されても。

 

結果。支援として成り立ち、相手(利用者)が笑顔になればいいのでは。

 

 

自分を愛せているだとか。自分を大切にできないとだとか。

本質的にはどーでもいいことで。

自分も相手も笑顔ならマル。

笑顔のところには愛がある。

 

っと思っておけば。ふわっとして。ファンタジックに着地できますねぇ。

 

さぁて。それをどう思うかはみなさん次第ですよ。

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 ワクワク。そしてゾクゾクしますねぇ。えっ?流行りのインフルかな?

信頼ってやつは…

信頼関係ってさ、難しい。

それは、誰であっても。

 

利用者に対しても。仲間に対しても。友達に対しても。

友達。知り合い。家族。病院の医師。学校の先生。レストランの店員。。。

 

世の中には、

私は誰も信じない。

と公言している人もいるけど。

本当に誰も信じないで生活できるのかなぁ。私は、難しい気がする。

 

だって。

ケータイショップで携帯電話を買い替えた時に、実はそのショップの店員さんが某国の工作員だったりして、買い替えた新しい携帯電話に盗聴器や発信機が仕込まれていないかどうか。

コンビニで買ったスナック菓子に生物兵器が混じっていないかどうか。

自動販売機で買ったペットボトルのジュースの容量が、表記されている500mlではなく499mlかどうか。

 

そんなこと疑ったり悩んだり確認したりしながら購入するの?

うわぁ。私には無理だなぁ。

 

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良い支援を実践するには、利用者本人やその家族との信頼関係が大切とよく言います。

また、利用者本人を取り巻く環境・機関の方々との信頼関係も同等に大切でしょう。

情報共有し、連携しなきゃだからねぇ。

 

そう。信頼関係って大切ね。

 

でも。どうやったら信頼してもらえるのかな?

みんなは楽々こなせるのだろうけど、私はさ。こんなだから。

ファジー感丸出しだからね。相手から信頼されるってすごく難しい課題です。

 

えーと。とりあえず期日のあるものは誠実に期日までに間に合わせて。丁寧に対応して。傾聴・共感の姿勢を忘れずに。

 

って。そんなことやりつくしてもね。本当に信頼されているかなんて分かるかい。

     

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信頼されているかなんて分からないなぁ。

 

信頼されていると思っていても、

あら?私にはその情報届いてないわ。私には全部話してますって言うてたのに。

なんてこと多々あります。

 

でも。まぁね。別に私に全幅の信頼を置かなくてもね。

他機関と連携してれば嫌でも情報は集まるしね。

他の誰かを頼って課題が解決されればそれでいいし。

そのための連携でもあるのかな。

 

信頼関係って。互いに信頼してなくちゃいけないのかなぁ。

一方通行だったり。1.8方通行だったりでもいいのかも。

 

自分が信じていれば。

なんとかなるもんだ。と私は思う。  根が適当だから。

 

信頼?って聞かれたら、

 

私は信じてる。相手がどうだかは分からないけど。

また、相手を分かった気になっているのも怖いしね。

 

って言うかな。

 

ん??

相手を分かった気でいることは、相手を信じているってことになるのかな?

じゃあそれが出来ない私は相手を信じていないのか?

分からなくなってきちゃったよ…また…。ぐるぐるぐるぐる…。

 

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ま、そういう複雑なことは置いといて。

 

私は、利用者や仲間やみんなを信じています。基本的には。

性善説の方が楽だしね。

そもそも私には他者を疑うほどのバイタリティがないというか、エネルギッシュではないので(ちなみにフレッシュさもないよ)。いちいち疑ったりするのはめんどくさーいや。

 

ただ信じる。

それで、自分がニコニコしてて、相手もニコニコしてて。

そしたらそれでいいんじゃないかと思う。

 

その裏で、どんだけドス黒い鉛を抱えていても。

実は、マリオみたいなうちの旦那がスパイだったとしても。

 

私は信じていられる。

何度も裏切られる怖さや悲しさを知っているけれど。

それが私の信頼関係。相手のことなんて考えていない自分勝手な「信頼」です。

 

という私の勝手な意思表示はさらにその辺に放置して。

 

 

エンパワメントには「信じる」って大事です。これは真面目に。本当。

この利用者にはこの課題を乗り越えるチカラがある、と信じるところから支援は始まります。

人って信じてもらえると、なんだかチカラが湧いてくるものです。

そして、人を信じる自分にもチカラが湧いてくるものです。

信頼ってヤツは…スゴイです。相手も自分もエンパワメント。

信じるチカラは偉大なり(ほぅら。宗教っぽい。なんでいつもこうなるかなぁ。)

 

私の喫緊の課題。

どうか、8時間持続と表記されているこのホッカイロが8時間持続しますよーに。信じてますよー。 

てんこもりシーズン

寒い日が続きますねぇ。

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そろそろあのシーズンがやってきますね。

 

お別れとか出会いとか。卒業。旅立ち。チャレンジ。

 

気分はグルグル目まぐるしく変わって、悲しんだり、喜んだり。悔しかったり、希望に満ちていたり。落胆したり、ワクワクしたり。不安になったり、焦ったり。緊張してワキ汗かいたり、テンパって下着を裏表逆に履いたり。

 

でもね、散々振り回された挙げ句、落ち着くところに着地するというファンタスティックなシーズンです。

 

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仲間との別れ。友との別れ。利用者との別れ。大切な存在との別れ。

そして、その逆もしかり。

新たな出会い。新たな挑戦。新たなファンタジー。

 

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かつては私もこの時期に何度も涙を流しました。呼吸が出来ないと思うほどに胸の痛みを感じたこともあります。

 

世の中には、私たちのチカラが及ばないことが多々あります。

それだけ私たちはちっぽけな存在なのです。

 

でもね。

同じ目標のために活動した仲間は、チームですよ。

喜びや悲しみ、苦しみや楽しみを分かち合った仲間はチームですよ。

どこにいっても。

 

職員だって。職場が変わってもチームであり続けることには変わりないです。同じ福祉で働く仲間みんながチームだから。

 

利用者だって、福祉に寄与する仲間です。だって当事者なしに障がい福祉の変革は出来ません。共に福祉増進を目指す仲間であり、チームです。卒業しても、場所が離れても、チームです。

 

チームだから、

会いたくなったら集合をかければいいし。

ツライ時には助けてと呼べばいいし。

話したくなったら思う存分「好きだー」と叫べばいいし。

 

別れは辛いけれど、みんなが違うフィールドに旅立つことでさらに大きなチームとなる。

新たな出会いでさらにさらに大きなチームへとなる。

 

うわぁ。無限に広がるチームの輪。

そしてチームが大きくなる毎に新しい価値観をゲットでき、私の支援の「引き出し」が増えていく。ふふん。

 

悪いことばかりじゃないね。この季節。

 

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別れが辛く感じるほどのステキな出会いに感謝です。

 

 

きちんとお別れしたからといって私のクモの巣のようなチームから逃れられると思うなよぅ。

ずっと絡みついて、私が困った時やメンバーが困った時やあなたが困った時には、絡め取って引っ張り出してやる…。

 

 

大丈夫。繋がろうと思えば繋がっていられるよ。

私はねぇ。みんなに嫌がられても勝手に、みんなはいつまでも大切なチームメンバーだって想い続ける。

 

だから安心して一歩踏み出して。