家族代わりになることを私は支援だとは思わない
福祉分野で働く人は、情に厚い人が多い。。
ような気がします。
気がするってだけですけどね。
でも。
それは時として、支援の障壁となることがあります。
いつだったか。
やけに利用者と距離感が近い事業所を見たことがあります。名前も呼び捨てでした。
敬語や丁寧語を一切使わず。
利用者も職員も対等というか、友達みたいというか…。
私には見たことない光景でした。
なので、
何で呼び捨てで呼んでるの?
何でそんな関わり方なの?
と聞いてみました。
そしたらね。
この利用者は家族関係が複雑なの。
家族代わりになってほしいと本人の母から言われてる。
本人も、今まで施設やら病院やらで暮らすことが多く、いつも◯◯さんと呼ばれて他人扱いされてたから、こうやって深く関わることを求めているの。
さん付けで呼ぶと、どうしても距離を感じちゃうじゃない?
と、職員さんに言われました。
ふぅーん。そうなんだぁ。
本人も求めてるのか。じゃあいいのか。
なーーーーんて、思えるかいっ。
大前提として、家族や本人が求めていること=ニーズではないでしょ。
まずさ。ニーズとデマンドは違うよ。
そして、家族にはなれないよ?
どんなに頑張っても支援者の私たちが家族になることは出来ないし。
まずまずもって、家族になろうとしてはいけないでしょ。職業人として。ていうか、なれないし。
私たちは、家族ではない支援者だからこそできることをする為にいるのであって。
お金をもらってサービスを提供しているサービスマン(私たち支援者)が、家族になるって。ねぇ?
いやいや。
ただのサービスマンとカスタマーの関係であることを忘れてはならないし、踏み越えちゃダメよぅ。
大体さ、呼び捨てにしなきゃ利用者との距離を縮められないなんて。スキルがありませんと降参してるのかしら。
呼び方云々、家族代わり云々…。
間違ってるぜぃ。熱い情熱を注ぐのはそこじゃない。
支援者として、本人や家族がそれぞれの課題を自分で解決できるよう後押ししたり、複雑に絡まった紐を一つずつ解いたり。
本人たち自らが歩き出そうと思えるようエンパワメントすること。
困った時に振り返ると座敷わらしのようにそこにいる…そんな存在でいいんじゃないのかな。
家族代わりになるって。果たして誰のニーズで、誰のデマンドで、誰の利益につながるのか。もしかしたら支援者が家族代わりになってあげたいと無意識にでも思っちゃってるかもね。
自分がやりたいことと、自分がやれることは違うからね〜。
どんなにいい人ぶっても所詮はお金もらって働いている職業人ですよ。利用者と一線はあります。けどね、その一線を心地よいものにするかどうかは、あなた次第♪
思い込みの支援にならないよう、私も精進しようっと。
勉強させてくれたその方々に感謝です。
あ、あとね。敬語や丁寧語を使わずに利用者と話していると、やっぱりどこかで利用者を敬う気持ちを忘れてしまいがちになり、それは時として人権侵害につながります。私が出会った人権侵害する支援者のほとんどはそうでした。言葉は言霊(ことだま)ですから。言葉は大切。想いが言葉になるように、言葉もまた想い・考え・行動に影響を与え、具現化してしまいます。だからこそ言葉に気をつけることによって、自分が一線を乗り越えないよう助けてくれることもありますよ。